山からエニシダを刈り取ってきて、長さ4mほどの大たいまつを作る。男四人が、それぞれ二人ずつに分かれて、太いロープを持って、足で蹴り込みながら松明を締め上げる。私が子供の頃までは、80貫(3.75kg×80=300㎏)もあったそうだ。農協で測ってみたらしい。私が担いだ時には100㎏程の小振りになっていた。
半分以下の規模になっているのは私でも分かった。それでも重かったことを覚えている。叔母や大叔母たちは、私がそんなものを提げに行ったというので驚いていた。百姓の人たちの荒くれだというのだった。事実、私の叔父が、我が家で初めて土俑(大たいまつ)を担いだらしい。その人の50回忌の灯篭を持って、私は火祭りにお参りしていたのだった。
興国寺の灯篭焼きである。親父は三男坊で体が弱かったから、とてもそんな場面には縁がなかったらしい。写真に写る大たいまつは一本300㎏よ。それを一人で担いで放り投げたりして朝方まで遊んだというのだ。8/15日の満月の夜の奇習よ。舞台は三昧場で古い火葬場よ。真ん中には南北に三途の川があった。
S20年、グラマンに奇襲されて撃沈された艦船の戦死者100人ほどの骨が白く残っていたものよ。これも地域ではタブーになっている。私が子供の頃は、恐ろしい話として、ちょいちょいと聞かされてきた。私たち子どもは、その原っぱで飛び跳ねて遊んでいたのだ。無邪気なものよ。この風習もすでにすたれている。私が最後の世代だったようだ。
確かにあの頃は貧しかった。しかし人々に熱気があった。何をしても面白かった、と親父の友達連中は言っていた。戦争から解放されて平和をかみしめていたんだろう。ちなみに、こんな重い大たいまつを、若者たちは取りあった、「ワシが担ぐ」といって一人担ぐと、暗闇から、後ろから誰かが尻ケツを足蹴りしに来たという。
それでもみんなが夢中になって担いで遊んだというのだ。恐ろしい話よ。今、風力発電の被害で、地域の人々はすっかりアホになっている。私一人が「苦しい」と被害を訴えているが、すべての人が私を憎んでいる。被害者もいるだろうにね。何がこうまで人々を狂わすのか、私にはまだ分からない。S20年、8/15日の様に解放されることがあるんだろうか。
その時、やはりあの時と同じように、何をしてよいのかわからずに、座り込んでしまうのだろうか。いったい何をしてきたんだろうかと、うつろになった視線をさまよわせて。人は、何も考えないんだよ。こんな行事を仕掛けることで、地域社会を維持してきた。各地のお祭りは、ほとんど形骸化して、アルバイトさんの手を借りて、やっと行事にしているでしょ。
そのうち外人さんが参加するだろう。その時、宗教は関係ないのか。とうに彼らは宗教には関心はありません、といっている。いやな気配がする。