庚申塚のこと

我家の蜜柑畑には、熊野街道沿いに庚申塚がある。この通りだけ「ウト」と呼ばれていて、昔はここを通るだけで怖かったと聞いている。隣には石造りの道標がある。普通は読めないね。行書、草書だから、昔の人でも特殊な人だけのものだろう。親父が子供の頃、道端に埋まっていたものを掘り出したんだと言う。

最初は墓だと勘違いして拝んだのだと笑っていた。誰もその字が読めなかったのだ。多分、石像は室町時代のものだろう。見ざる言わざる聞かざるの三匹のサルが描かれている。人が生きる知恵なんだろう。頭上には雲がある。これが神さんらしい。庚申講といって、年に六回、持ち回りで行事をした。

我家の時だけ山から椎の木を切ってきて、削った面にお経を書きつけた。観音経を唱えて、素朴な宴会となる。ナマスとか、豆や芋の炊いたんとか、てんぷらとか、各家庭での精いっぱいのふるまいだった。その集まりも50年も前に絶えてしまったから、とても懐かしい。各地区でも同じことになっていた。

石造のデザインは全国共通だ。どこで作られたものなんだろう。きっと専門の工房があって、各地にせっせと運んだのに違いない。国分寺みたいなものか。同じような石造として、役行者がある。これは少し新しそうだ。これも講を作って、奈良の大峰山へ物見遊山に出かけていた。親父に連れていかれたけど、結構にぎわっていたよ。

こういうのを見ると、昔の人の方が精神的に充実していたんではないか、と思えてくる。飾り気がない分、日頃の生活の中で、何が大事なのか直接に教えてくれる。どうも私は、そのどれにも反抗して生きてきたようだ。やっと昔から伝わっている英知、生き方があることに気が付いたよ。いや、ずいぶんと頑張って生きてきたつもりだ。

化石の岩山

我家のミカン畑に隣接して、化石の大岩がある。昔は石材として利用したらしく、護岸の石積み、住宅の造成に使用した。発破の痕があちこちにある。梅干し、のようなウニの化石があって、以前はたくさん転がっていた。石灰岩だから周囲が溶けて化石だけになる。

ところがよ、レジャー客が来て、それを必死になって取っていくものだから今は何もなくなっている。エライものだよ。小学生たちが先生の引率で30人ほどが来ると、もうどんな欠片も拾いつくしてしまう。趣味人や学校の先生が来ると、それはもう虱潰しだよ。

別の所にも同じような化石の岩山があったらしくて、その百姓が言うには、「昔はいくらでもたくさん転がっていたものが、今は何一つない。大したものだよ」と笑っていた。その人は煩いから岩山を発破ですべて壊してしまったと言っていた。

なんせ天然記念物なんかに指定されると、観光客? 私への攻撃で煩いことよ。それを笑ってのことだったのだ。由良町の白崎海岸は白い風景で有名だ。化石の石灰岩は灰色で、変成作用を受けたらしくカルシウムの結晶が所々にある。そんなものも今はないか。

大昔の日本列島の形成、歴史がバームクーヘンのように積み重なっている。カニや魚の化石があったから。我家の蜜柑畑は、化石の岩の下側だ。両脇と上の方は他所の土地になっている。私の畑を荒らさないでくれ。立ち入り禁止だ。電気柵もどれだけ壊されてきたことか。

侵入者には何を言っても通じない。ステンレスの細い線なんか目に見えないからね。猪の罠も仕掛けてある。怪我したら私の責任だと言う。アホらしい。大岩に通じる道は、他に三本ある。隣接する他の百姓は、立ち入り禁止だと言う。私有地だからね。

自分の畑に知らない人が押し掛けてきたら嫌なものさ。それで私に対する悪口合戦になる。もともと仲が悪いからね。嫌な話さ。もし、この岩山が貴重な自然遺産なら、それなりの管理が必要だろう。どうもそうはなっていない。化石を取りつくした岩山は、なんか廃墟を思わせる。

私の子供の頃は、五月五日のこどもの日に、てくてくと歩いて登って、岩山の上で弁当を広げて楽しんだものさ。素朴で、おにぎりとコンコが美味かった。地域の人々も集まってきたものよ。今は違うな。殺伐としている。私の蜜柑畑には入らないでくれ。

私有地、私道、私に権利がある。ぜひ、別のルートから登ってくれ。「立ち入り禁止」の看板を設置するつもりだ。

タケノコを食べている。

裏山に孟宗竹の林があって、タケノコを掘ってきた。ちょうど地面にヒビが出来て、鳥のトサカのような固い新芽をちらつかせている。収穫の合図だよ。親から教えられたとおりに、トサカの倒れた方からトンガの刃を入れる。

稼業だからね。熟れたものさ。しばらくはタケノコ三昧になる。猪みたいやろ。最近は塩漬けにして、夏までしつこく食べている。残った塩の汁は糠漬けに使っている。無駄はない。すっかり一人暮らしになっている。