頼山陽を読んでいる。

これまでも何冊かの頼山陽の本を読んできた。今回は新聞の書評欄に紹介があったので、またチョット寄り道して乱読して見るか、ぐらいの気分転換であった。ふと中村真一郎さんの本が気になった。ご自身も神経症で、精神的に苦しんだ経験があるらしい。それでか、文体と中身が息苦しいほどに練り込んである。読んでいて息が詰まる。窒息しそうだ。

適当に読み飛ばしながら、アッ、そうか、頼山陽も放蕩息子と言われながら、原因は神経症にあった、と何度もしつこく書いている。死ぬまで悪口が絶えなかったとか、漢文調で厳しい批判の言葉をたくさん載せている。その割には友人知人に恵まれて、成功した人の人生観を追いかけている。家族は皆著名な学者ばかりだ。必然として頼山陽は生み出されたらしい。

芸者遊びするんだから、カネにも困らなかったんだろう。今の世で芸者を呼んで三味線鳴らしたらどんなことになるやら。我家でも昔、100年ほど前にはそんなバカ騒ぎをしていたらしい。由良港は、太平洋の出口にある避難港だからね。女郎屋もたくさんあった。私も三味線の音が大好きさ。才能に恵まれるとエライことになる。

私はこれまで頼山陽の放蕩ぶりばかり読んできたけれど、他の作家でも神経衰弱の人は結構な苦しみにのたうち回っている。夏目漱石とか、現代作家にもいるんでしょ。発狂した、なんてね。たぶん、そんな苦しみをエネルギーにして名作を書き上げたんだろうかね。幕末から明治にかけて、頼山陽はベストセラーだったという。s30~40年代、私の子供の頃は山陽の名は、すっかり跡形がなかった。

教科書にも古典にも例がなかった。万葉集や司馬遷の『史記』なんかは有名な先生の講義を聞いたから一応の中身は知っているけど、頼山陽の事は何も知らないと言ってよい。百人一首はね、祖母が教養人だったおかげで満点だったよ。和歌山は陸の孤島と言われて、平安の昔の言葉がそのまま保存されていた。話し言葉として、普通に使っていたから。

「アンタ最近、寝らるるかい」と言ったものさ。今でも自然に出てくるのは和歌の言葉だ。しずごころなく、とか、あおによし、とか、行方も知らぬ恋の道かな、と思い出す。漢文はないね。まさか頼山陽の派手な詩文なんか、恥ずかしくて言えない。そんな言葉を詩吟にして大声で歌う人がいる。アホかいな、と驚くしかないんだよ。神経症の爆発かいな、と推察する。

山登りした時、「ヤッホー」と叫ぶのと同じ事だろう。開放感、感情の捌け口、ここまで忌み嫌う神経症が公に受け入れられるか。なーんや、心の病気なんかそれほど気にすることなんかなかったんや、とこの本を読んで確認した。そんな場面が何度となくこの本には繰り返される。本人はしんどかったのかもしれないね。漱石も山陽も短命だった。でも家庭的には恵まれていた。羨ましいかな。

以前紹介した『一流の狂気』にはリンカーンやケネディ、ヒトラーなどの心を病んだ人の最後が書かれてあった。著者の書き方、見方もあるけど、普通は七転八倒して人に迷惑かけるわな。それでも余りある名声を残すんだから大したものだよ。風力発電の被害では、被害を訴えるものは精神疾患のものとされている。齟齬、何かが違う。

それはこの本に書かれてあるような個人的な内面の葛藤ではなく、社会的な弾圧、政治・行政の迫害だ。精神疾患の意味は何だと思うか。プラシーボとか、錯覚だとか、いろんな言葉が連ねてある。そして被害者は何も言えなくなっている。どちらが狂気なんだろう。私は政治や行政が狂っていると判断する。私を憎み嫌悪する人たちの狂いようよ、へーえ、こんな奴やったんや、と見ている。

目に涙をためて、真っ赤な顔して叫ぶ人がいるからね。私に対してだよ。笑うしかないわ。彼らはそれほど嬉しい何かキッカケをつかんだんやで。差別の殻で閉じ込めた被害者の苦しみの愉悦に。